ルートヴィヒを語るのにワーグナーは欠かすことのできない要素で、数々の本でも多くの頁が割かれているが、私はどうもルートヴィヒとワーグナーの、二人相まみえて倍増した誇大妄想とエゴの暴走する、醜女の深情けとそのヒモのような(勿論それだけではないのは十分承知だが)関係を積極的に語る気がしない。生理的不快感とでもいうのだろうか。愉快じゃない。(あくまで私見)
ルートヴィヒの方はまだ、(例え彼を援助することで自分の夢の世界を三次元化し、同時に、プロイセンという大きな時代の波に飲まれ歴史上では片隅に追いやられても、音楽史上ではワーグナーと共に名を残したいという気持ちがあったとしても)“好き”の一念が感じられる。だが、ワーグナーの方はルートヴィヒを利用することしか考えていないような気がする。口を開けば金である。たまにまともな意見を言上していると思えば、どこかで利害関係に関わっている。まるで美辞麗句というケバケバしい衣装で着膨れた俗物のようだ。どんな美し言葉や豪華な衣装を纏ってもにじみでる卑しさは隠しようがない。(あくまで私見!)
ワーグナーの無心は限度を知らない。“王と油は搾れるだけ搾れ”とでも言いたげに際限を知らない。彼は偉大な作曲家ではあるけれど、彼の価値観、人間としてのけじめの無さは群を抜いている。(あくまで私見ですってば)
ワーグナーは無邪気なくらい自分の欲望に忠実で〜この辺、彼と彼の庇護者はよく似ている〜足ることを知らない。尤も、それゆえ彼の作品が他に類を見ないすばらしいもので、今もなお世界中のファンの心を捕らえてやまないのだろう。因みに私も作品は好きだ。
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