リヒャルト・ワーグナー

ファウストの額と
 メフィストの横顔を同時に持つ男
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ルートヴィヒにとって最も重要な人物であるにもかかわらず、褒め称える言葉一つも書かれていない。それどころかどこか悪意のある扱いにルートヴィヒが見たら気を悪くするかも。〜プフィ・プフォからは拍手が聞こえてきそうですが。
(と言う書き出しで始まってます。この章。
これを書いた当時のわたしはよっぽどワーグナーという人物が嫌いだったようで、見る人が見たら気を悪くするどころか不愉快になるかもと思ってしまいます。そういうことですので、「気を悪くしてもいいからとりあえず見たい」という方だけ、反転して読んでください。読んだ後の苦情はどうかご勘弁を。

                 
反転
ルートヴィヒを語るのにワーグナーは欠かすことのできない要素で、数々の本でも多くの頁が割かれているが、私はどうもルートヴィヒとワーグナーの、二人相まみえて倍増した誇大妄想とエゴの暴走する、醜女の深情けとそのヒモのような(勿論それだけではないのは十分承知だが)関係を積極的に語る気がしない。生理的不快感とでもいうのだろうか。愉快じゃない。(あくまで私見)
 ルートヴィヒの方はまだ、(例え彼を援助することで自分の夢の世界を三次元化し、同時に、プロイセンという大きな時代の波に飲まれ歴史上では片隅に追いやられても、音楽史上ではワーグナーと共に名を残したいという気持ちがあったとしても)“好き”の一念が感じられる。だが、ワーグナーの方はルートヴィヒを利用することしか考えていないような気がする。口を開けば金である。たまにまともな意見を言上していると思えば、どこかで利害関係に関わっている。まるで美辞麗句というケバケバしい衣装で着膨れた俗物のようだ。どんな美し言葉や豪華な衣装を纏ってもにじみでる卑しさは隠しようがない。(あくまで私見!)
 ワーグナーの無心は限度を知らない。“王と油は搾れるだけ搾れ”とでも言いたげに際限を知らない。彼は偉大な作曲家ではあるけれど、彼の価値観、人間としてのけじめの無さは群を抜いている。(あくまで私見ですってば)
 ワーグナーは無邪気なくらい自分の欲望に忠実で〜この辺、彼と彼の庇護者はよく似ている〜足ることを知らない。尤も、それゆえ彼の作品が他に類を見ないすばらしいもので、今もなお世界中のファンの心を捕らえてやまないのだろう。因みに私も作品は好きだ。




   


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  実はわたくし、ビューロー氏には海よりも深い感謝の念を抱いております。多分、フォン・メック夫人とヴロズキー氏の次あたりくらいに。彼がいなければ私の最愛の作曲家チャイ様(チャイコフスキー)のすばらしいピアノ協奏曲1番は、ルビンシテインにボロくそに言われたまま、日の目を見ずに埋もれてしまっていたでしょう。
この曲の非凡を見抜き、初演を大成功に導いてくれたビューロー氏こそ、天才を知る天才でありましょう。ビューロー氏の作品を見抜く目はまさに慧眼。ワーグナーは言うまでもなく、チャイ様にしろブラームスにしろ世間や本人がなんと言おうといいものはいいと評価し、さらにすばらしいところはその評価の正しさを音楽史が証明しているところです。(故に私はこの際氏が寝取られ宗介だろうが、晩年ちょっとイタかろうが全然気になりません!)
 ・・・・・・全然関係ないんですけど、氏の若い頃の写真がおそろしく銀英伝のオーベルシュタイン閣下に似ているんです。 似てるんですってば!  




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