かくも短き転落への道のりルートヴィヒ�U 1863〜86)
               


               ルートヴィヒ語録&日記及び関係者のルートヴィヒ評

                                              参考資料:王立図書館目録書籍





1845年8月25日 00歳 ルートヴィヒ�U、ニュンフェンブルク城にて誕生        
1846年 01歳 ローラ・モンテス事件
1848年 03歳 3月革命。ルートヴィヒ、王太子となる
1854年4月24日 09歳 バイエルン公女エリザベート、オーストリアの皇后となる 
              
 (日本)53年浦賀にペリー来航
1858年


1861年2月2日
13歳


15歳
ワーグナー著『オペラとドラマ』入手
ミュンヘンで『ローエングリン』上演、その噂を聞く。
『ローエングリン』『タンホイザー』の台本入手
『ローエングリン』観劇、タイトルロール、シュノール・フォン・カロルスフェルト
 
1861年 ルートヴィヒ15〜16歳

評 ド・ラ・ローゼ伯爵(養育係) 『王子は音楽には興味も示さず才能もなく、五年かかって、まったく成果がない』 
 

1863年 ルートヴィヒ17〜18歳

8月16日 プロイセン王と宰相ビスマルク、ニュンフェンブルク城を訪問
9月 寵臣、副官付パウル・フォン・タクシスと2週間ベルヒデスガーデンで過ごす
      『ニーベルンゲンリング』の台本入手


語録   一般入場者でごった返す展覧会にて
『詩的な印象が繕いようもない散文的なものに変わる。罰せられたのなら別だが、神々の饗宴から、死すべき人間の世界へなど下りていけるものではない』
評 ド・ラ・ローゼ伯爵(養育係) 王子の途方もない想像力(空想癖)は、王子の中で青年の心には通常見られないほどに大きな力を持ち、また執拗な固執癖があらゆる物事に関して観察できる。
評 ビスマルク  ニュンフェンブルク滞在中、王子と晩餐をともにした時、王子の思いは食卓を遠く離れた世界を彷徨う様子で、たまに私に話しかけなければならないことを思い出すようだったが、そのときの王子の指摘は才能と機敏さと常識があるように思われた。
評 クララ・チューデイ(作家) 軽く波打つ豊かな髪と、うっすらした髭は古代ギリシャの人々にとっての男性美を思わせる、古典世界の彫像のようだ。乞食であったとしても、目に付いただろう美貌の持ち主。
評 バーデン外交官
フォン・モール
唐突に何の準備もなく、子供部屋から王座につけられた印象。
           Kすごく鋭い指摘だと思う〜
評 ボムハルト法務大臣 若々しい美しさに満ちた高貴な姿の青年王は、歴史や司法上の問題、新刊の歴史書、政治情勢などについての知識を得たいと思っておられる様子が、ありありと感じられた。
 


1864年 18〜19歳
           
2月 『ローエングリン』観劇。タイトルロール、アルバート・ニーマン
                     
(日本)池田屋事件
3月10日 マクシミリアン�U崩御。ルートヴィヒ、王位につく
5月5日 ワーグナー と初謁見
6月18日 オーストリア皇妃エリザベートとバート・キッシンゲンで再会
12月4日 ミュンヘンで『さまよえるオランダ人』上演


手紙 レオンロート男爵夫人
(養育係)
私の心は国民のためにのみ脈打ち、国民の福祉のみを思っています。国民の幸福につながるようなことは、何でもしようと思っています。国民の福祉と平和、それがすなわち私自身の幸福の条件なのです。
語録  p 議員たちが自らの魂と良心に照らして意見を言わず、かつて弾劾していたことを今日行えというならば、王に真実を知る手だてが、あるだろうか。
評 コルプ夫人  ベルク湖にて、ギャロップで馬を走らせてきたルートヴィヒを見かけて。
『あの方はまるで馬上の踊り子のように優美でいらしたわ』
評 オーストリア公使
ブローム 
自然はこの若き君主に理性よりも多くの想像力を与え、教育の過程では、何より心がなおざりにされたと思われる。極端な自尊心、我が儘、仮借の無さが容易ならぬほどはびこっている。
母君の茶会には、国王は週に一度しか姿をお見せにならず、淑女方の集まりにも女性とも交際も、これまで何の関心も示さない。    
                    ブローム鋭い・・・侮れない奴
語録  p やがて終わろうとしているこの一年は、私の人生で最も美しい年となるだろう。この一年は終始陶酔であり、幸福であった
 

1865年 19〜20歳

6月10日 ミュンヘン王宮劇場で『トリスタンとイゾルデ』初演  ド・ラ・ローゼ伯爵死
6月14日
10月
プロイセン、オーストリアに進撃 7月、停戦 8月、平和条約
スイス・ルツェルン湖畔へ旅行
12月10日 ワーグナー追放。
12月 プフォルテン(反ワーグナー派)失脚、ワーグナー人選でホーエンローエ後任に就く


語録 ホーエンローエに
(首相)
ビスマルクの野心は北ドイツに制限されていると主張するホーエンローエに
『確かに今はそうだが、時がたてば要求は厳しくなるに違いない』 
評 ホーエンローエ この王の資質は、きわめて高貴で詩的で、人を惹きつける並外れた力を持っている。王には知性も意志力もあるが、この王の治世に力量を越えるような責務が、課せられることのないのを願う。
王が優しさと温情を持ち続けられるように見えながら、突然、厳格で鋭い眼差しになり、暗い様子を見せられるのに気づいた。『この青年の心の中に、二つの性格の葛藤があるのならば、どうかよい性格が勝ちますように』と神に祈った
 

1866年 20〜21歳

5月22日 ルツェルン郊外トリープシェンのワーグナーの元に訪れる  
(日本)薩長連合
6月14日 普墺戦争勃発(オーストリア側に付き敗戦)
                Fパウル・フォン・タクシス失寵


手紙 ワーグナーへの手紙 ああ、この世の要素は恐ろしく、寂しげです。闇の精霊たちが支配し、嘘と裏切りに満ち、誓約は用を為しません。条約は破り捨てられています。しかし、まだすべての希望を捨てたわけではありません。どうか、神のご意志によってバイエルンの独立が全うされますように。だがもし、独立を捨て、外国に対して抗議する権利を失うようであれば、私は去ります。私は実権のない亡者の王とはなりたくありません。
評 ホーエンローエ 王は誰とも会おうとせず、薔薇島でパウル・タクシスを相手に花火をあげて暮らしている
評 オーストリア大使
ブローム
王は無為に時間を過ごしており、ピアニストのビューロー以外には誰とも会おうとしない。王は戦争はしたくないと言っている
評

 p
バンベルクの戦線視察に訪れたルートヴィヒに対する一兵士の印象
彼は神のように美しかった。私は心臓が止まるかと思った。感動のあまり「この神のような若者は、この世の中に生きるには美しすぎるのではないか」と不吉な予感さえ抱いた

 
1867年 21〜22歳
                                           
1月22日
 
バイエルン公マクシミリアン娘、ゾフィと婚約  
                    
Fパウル・フォン・タクシス、歌手と結婚
5月6日 リヒャルト・ホルニヒ、ベルク城にて見出され従僕となる
7月 パリ万国博へ視察旅行
10月10日 婚約解消 (日本)大政奉還


語録 p
 
結婚するというホルンシュタインとタクシスに向かって
『ならば私もそうしよう。君たちにおつきあいだ』
語録 パリで
(7月)
不思議なことにパリは、私がある種の関心と共感を抱ける唯一の町になっています。他の町はパリへの中継地に過ぎません。パリは現代文明の中心地です。そこでは、他のどこへ行っても質の悪い不愉快な模造品でしかないものの原型が生まれるのを、見ることができます。Kその模造品を自分もせっせと造ることになるのね。・・・このころ生涯を(ほとんど)共にすることになるリヒャルト・ホルニヒと出会う。
語録 p
 
パリ、チュイルリー宮殿舞踏会でポワリイ夫人に
『女を愛するならば、ちょうどここにある女性のように白く、石でできた女がいい』
語録 p
 
心が美しく、身体が美しく、音楽的な声、そして仄かに百合の香りが漂う女性がいい。・・・・現実にはいなくていい。ただ夢見るだけで充分
語録 結婚について 結婚するくらいならアルプ湖に身を投げて死んでしまいたい
評 バーデン宮廷大使モール ルートヴィヒとゾフィ公女の婚約写真を見て
『婚約者である王は、どう見ても恋に落ちているとは見えない』
評 バムハルト法務大臣 婚約発表の直後、拝謁を賜ったとき、お二人の並んで立たれる写真を頂いたのだが、あのときのご様子からは、熱に浮かされた恋などと言う気配は少しも窺えなかった。
評 リスト
(8月1日) 
タホイザーを観劇しているルートヴィヒを見て
『ご婚約の気は、大分程々になられたようだ。ひょっとすると、このまま永遠に消えてしまうのではないかと噂するものもいる』
手紙 ゾフィとの婚約解消後、コジマへの手紙 私は子供の頃からゾフィを知っていて、そばにいるだけですばらしい人だと、妹についてそう思うのと同じように深く真剣に思っていました。私は彼女を信じ、私の友情を与えたのですが、愛は与えなかった。結婚の日が近づくに従って、この結びつきが二人のいずれにも幸せをもたらさないだろうと認めざる得なかった時の、私の苦しみがいかほどであったかは、ご想像いただけると思います。
手紙 婚約解消後、レオンロート男爵夫人 私を縛り付けていた重苦しい鎖を立ちきったという今の幸福感は、重い病の危機を脱した後で、やっと新鮮な空気に触れた時の清々しい感触に似ています。
手紙  マリー・ダーンへ あなたは私がいつもだいたい不幸であると思っておられるように見えました。それは違います。それどころか好きな山や田舎にいるときほど幸福で満足していることはないのです。不幸で哀れに気が滅入り、孤独であるのはぞっとする町にいるときだけです。
日記 10月10日  婚約解消公式発表の日に
『ゾフィとのことは終わりだ。暗く鬱陶しい絵は消えた。私はこの悪夢から覚めて、自由になることを渇望していたのだ」
K
悪夢から覚めたのではなく、現実から目をつぶり、本格的に本当の悪夢に飲み込まれていくことになるんですね・・・
 
1868年 22〜23歳

6月21日 ミュンヘンにて『マイスタージンガー』初演       (日本)明治維新
9月28日 ゾフィ、アランソン公と結婚

語録 元婚約者ゾフィ公女とアランソン公の結婚式に出席して
『死ぬほど退屈した』
 

1869年 23〜24歳

9月5日 ノイシュバンシュタイン城定礎式。正式名ノイ・ホーエンシュバンガウ城(1892年完成・王の死後)
9月22日 ミュンヘンにて『ラインの黄金」初演

手紙 レオンロート男爵夫人へ 現在の恐ろしい時代の不安を忘れるために、詩的な避難所に逃げ込めるような環境を造りだすことが、いまほど必要であったことはありません。
 

1870年 24〜25歳


6月26日 ミュンヘンにて『ヴァルキューレ』初演
7月19日
7月24日
普仏戦争勃発(プロイセン側に付く)
プロイセン王太子ミュンヘン訪問
9月2日 セダンの勝利  ナポレオン3世降伏
10月
12月
ベルサイユでドイツ統一の為の会議(欠席・弟オットー代理)
ホルンシュタインの勧めでビスマルク宛の『皇帝書簡』にサイン
          Fオーストリア皇太子ルドルフと文通開始

語録
p
 
プロイセンとの「同盟相互援助条約」について
『ビスマルク氏は私の王国をプロイセンの一州にしようとしている。不幸にしてビスマルク氏は、やがてこの目的を達成するだろう。そして私は、それを阻止できないのだ』
評 プロイセン王太子
フリードリヒ 
凛々しさがすっかり消え、前歯が抜け落ちている。顔色が悪く、神経質な話し方で絶え間なくしゃべり続け、質問しながら答えを待ちきれず、答えを聞くとすぐまた関連のない質問をする。しかし王の心と魂は我々とともにあり、一大民族運動に己を捨てて力を貸しているように思われる。
評 ビスマルク 王は夢の中に生きている。
日記 8月7日 アルプ湖の冷たい水が私を招く。(普仏戦争に嫌気がさして)
評 プロイセン特使
デルブリュック
9月頃 
王は非常に才能豊かで魅力的な性格であるとの印象だった。この君主が豊かな資質に恵まれているのにも関わらず、何故外界との交渉を不安げに断ってしまっているのか、その秘密の鍵が私には見あたらなかった。あるいは自らの誇り高い尊厳にふさわしい形で、公衆の面前に立つ能力に欠けていると思っていたのかもしれない。
           
          
日記 1970年
1月
有名な(?)リヒャルト・ホルニヒとの愛と悔恨の日記Part1
王により
1月にも2月にも決して、そしてさらに、可能な限りあらゆる手段によって、神と王の助けを借り、この習慣をうち破らなければならない。このようにして不可能が宣告される、神と王との庇護にかけて誓う。
 追記
冷水での不必要な沐浴を止める。三の�]�Wより終わり。聖水。すべての王の病は王の意志によって消し去られる。新しい頂が精神のうちで極められる。あらゆる予防措置しなければ、厳しい罰を受け、長く続く良心の呵責を感じるのだ。
Kわけわかりません。でもかなり同性との特別な友情について悩んでいるようです・・
 

1871年 25〜26歳 
1月1日 ドイツ帝国成立  18日 プロイセン王ヴィルヘルム�T世皇帝即位
5月 オットー(弟)精神異常で軟禁
5月10日 フランクフルト条約 独仏和平成立
7月16日
 
戦勝祝賀閲兵式に臨席 (日本)廃藩置県
    リヒャルト・ホルニヒ結婚、一時失寵

手紙 弟オットーへ
7月10日 
『政治的理由から皇太子(プロイセン皇太子フリードリヒ)を勝利祝典行進に招待するようあっちこらもこっちからも圧力をかけられた。絶望的だ』
『先年以来、権力と人間を憎しみ始めるようになったことに、別に不思議はない。だがしかし、王として治める、これほど微妙で繊細なことがこの地上にあるだろうか。残念だが私は、人生のすべての楽しみを奪われた時代に生まれてしまったのだ』
戦勝祝賀閲兵式でプロイセン皇太子フリードリヒを迎えて
『これが臣下としてはじめての騎乗だ』
日記

 p
リヒャルト・ホルニヒとの愛と悔恨の日記Part2
大いなる王の肖像の前で宣誓。「三ヶ月間あらゆる興奮を慎む。一歩半以上近づくことを禁止」  
K一歩半以上近づかないようにしようと思った相手はR・ホルニヒ。
語録 p ホルニヒの結婚に対するコメント
『普仏戦争以来の災い』 
K
賛成したり反対したりもうぐちゃぐちゃですね
 

1872年 26〜27歳
5月6日 国王専用の非公開上演が始まる (日本)新橋ー横浜間鉄道開通
5月22日 バイロイト祝祭劇場定礎式         リンダーホフ城入居可能となる。


評 枢密顧問官
ボムハルト
王はますます隠棲的で風変わりになられた。そのようなご性向と戦われることも、職務に適った健康的な活動に従事されることもおできにならなくなった。
語録
 p
私は、人々が私の表情を逐一オペラグラスで追うような中では芝居を楽しむことはできない。私自身が見たいのであって、観衆に見られたいのではない
日記 1月21日 リヒャルト・ホルニヒとの愛と悔恨の日記Part3
我が魂の愛するもの、リヒャルトとの和解。21日、純粋にして高貴なる王、ルイ14世の命日。印象的に寓話的に、最後の罪。この贖罪の死により聖化され、あらゆる汚濁を洗われ、リヒャルトの友情と愛の純なる船となる。波によって献げられた聖化される指輪は、それを着けるのに巨人の力と断念する献納を与える。聖にして純なる口づけ・・・ただ一度 
                      72年1月21日
 永遠に生きる王、リヒャルト。
 永遠に悪を払う
2月3日 手を打ち払え。二度と再び厳しい罰を覚悟のこと。  我は王なり。
1月にはリヒャルトは3度、私と一緒にここへ来た。王宮劇場で歌。ルイ14世風の背景。31日、宮廷舞踏会。リヒャルトとニュンフェンブルクへ遠乗り。28日「ローエングリン」 しかし指輪は思いを込めつつ一人。
 王によりて。我々の友情にかけて誓う                   
 何があっても過ちを起こさぬこと。6月3日までは。
3月6日 私たちが初めて出会い、死に至るまで別れぬこととなった記念すべきあの日、1967年5月6日の記念日まで後ちょうど2ヶ月。
王によりて。王に決して(二度と再び)触れぬことを命じ、自然の発露にあまりに頻繁に身を任せることを禁ずる。不履行の場合は不服従の罪に問う。
4月22日 朕の王宮にておいて、4月22日(我が人生においてかくも重要な日、5月6日の2週間前)Mに与える。
恩寵の年1872年、朕の治世第9年。王によりて。
10月15日 ルイ14世とルイ15世の名において、1872年10月14日から15日の夜半、最後のふれあいを持ったものとする。権能高きこれらの王の名によることは、永遠にうち勝つ力への保証である。恩寵の年1872年10月15日、朕の治世第9年、ホーエンシュバンガウにて与う。 
 

1873年 27〜28歳

3月23日 ヴァリコート男爵、侍従武官に任命  4月 ヴァリコート男爵失寵
8月2日 バイロイト祝祭劇場棟上式
9月25日 ビスマルク、ルートヴィヒに爬虫類基金(城作りで手詰まりになっていたルートヴィヒ�Uに対する援助金)を開始する
9月26日 ヘーレンキームゼーのインゼル島購入   (日本)地租改正条例 徴兵令

 
1874年 28〜29歳

8月 パリ旅行 ホルンシュタイン他総勢6名

評 エリザベート ルートヴィヒを見て・・・・・あんなに太って・・・・。( 以後彼女は殺人的なダイエットに精を出す)
評 フュステティチュ夫人 王は監禁しなければならないほどの狂気に冒されているのではないが、正気の人とつきあうには異常すぎる。
評  パリ警察警視
シャルル・フォンテーヌ
8月、パリに来た王に随行して
『王の背の高さは並外れている。肉付きがよく、肩幅が広く、背筋を伸ばし、髪の毛が多くて縮れていて、頭を掻きむしるような動作をよくする。丸く顔が浮腫んでいるようで、小さなグレーの目は奥目だった。顎髭は茶色で、口ひげと顎髭がつながっていた。独特の歩き方で、足を踏みならすようにして歩く。右足が極端に外輪で、腰の動きから下半身の動きがぎこちないことがわかった。パリ滞在中は、到着の日から同じ服でゆったりとした上着に同じくブルーのズボンだった。ワイシャツにはボタンの替わりに金の百合型の留め具が付いていて、一つが三センチほどの長さだった』
K足の奇形は落馬事故によるもの。・・・それにしても事細かな観察、どうもありがとう(T_T)  ブルボンおたくの王はブルボンの紋章(百合の紋章)のボタンまるで某アニメ女の子キャラおたくが、そのキャラのバッチして歩き回ってるみたいでちょっとイヤかも〜。
 


1875年 29〜30歳

8月22日 ミュンヘンでの観閲式に臨席(この日を最後に公式の席を断つ)
11月 オーストリア皇太子ルドルフ、ルートヴィヒを訪問

評 オーストリア皇太子ルドルフ  母、エリザベートへの手紙に
『自分自身の中に懸命な形で閉じこもり、自己の知識にのみ埋没し得た人、従って、信頼することも愛情をかけることも極めて希であるはずの人が、私を友として選んでくれたことを、十分に感謝し、誇りに思う』

 
1876年 30〜31歳

8月 バイロイト祝祭劇場にて『ニーベルンゲンリング』上演稽古観劇 
ワーグナーと8年ぶりに再会

手紙 ワーグナーへ バイロイト祝祭劇場に足を運ぶに当たって
『ボックスに入ってくるような王侯方から隔ててください。それから幕間には必要なら憲兵を使ってでも私に近づくことのないよう、取りはからってください』
 
1877年 31〜32歳

日記 7月28日 リヒャルト・ホルニヒとの愛と悔恨の日記Part4
リヒャルトに会い、知るようになって10年経つ。再び堕落する危険はこれを最後にしたい。・・口づけ一回も、言葉でも、書き物でも、行為でも、もう不安を持たない。百合の魔術。純粋。純粋。二度と再び欲望を抱き、心の動揺を感じることのないよう注意する事を約束する・・・・10年前の1867年のよき日の思い出に。  リヒャルトとルートヴィヒ    
 K二度と再びといい続けはや5年。相変わらずつきあっている二人であった・・
 
 
  
1878年 32〜33歳

5月21日 ヘーレンキームゼー城定礎式
11月 ミュンヘンにて『ニーベルンゲンリング』全曲上演

手紙 ワーグナーへ あのブランデンブルクの田舎紳士(ビスマルク)に指導され、何らの理想も持ち合わせない冷たいプロイセン主義によって成り立っている、あの哀れなドイツ帝国は私にとっても例えようもなく嫌な存在です。
 

1879年 33〜34歳

リンダーホフ城完成


1880年 34〜35歳

11月21日 非公開演奏会でワーグナー指揮による『パルジファル』鑑賞 ワーグナーとの最後の会見

手紙 マリー・ダーンへ  時に私が、真に怒りと嫌悪に駆られ、援助を惜しむこの度し難い外界に、憤ろしく背を向けるのも、無理からぬことなのです。私が大切に育んでいる理想の火が、すべてかき消えるとき、あるいは私はこの世と和を結ぶかもしれません。
手紙 エリザベートへ 『私たちの魂はーそのことは私にはよくわかっていますがー卑劣な行為や不正に対する共通の憎しみによってつながっているのです』 
『何時の日にか、重苦しいこの世と意を通じ合うようになれるのかもしれません。私の理想の精髄のすべてが燃え尽き、私が心を込めて聖なる炎を守ろうとしてきた躍動力が消える時が、その時期なのだろうと思います。しかし、そんなときが来て欲しいとは思いません』
『私は自分にとっても他人にとっても永遠の謎でありたいのです』
『親愛にしてかけがいのない人、それがあなたでありこれからもそうでしょう。あなたが私を疑うことが決してないのがわかっているからなのです』

            
語録 p ヴィッテルスバッハ家700周年記念祝典に欠席して
『何千人もの人々に見られながら、立っているのはもう耐えられな
い。私が出席しなくても革命にはなるまい』 
  
         
                    
1881年 35〜36歳

4月30日 『マリヨン・ドロルム』のディディエを演じる俳優ヨーゼフ・カインツを見いだす
6月27日 カインツとスイス旅行 7月11日カインツ失寵
7月26日 バイロイト祝祭劇場にて『パルジファル』初演     (日本)国会開設の詔

日記 1月21日  リヒャルト・ホルニヒとの愛と悔恨の日記Part5
8月にも9月にも10月にもなし。今日は百合。王なる唇への口づけ、最後の・・。聖なるルイ16世の殉教によって私の決心の固からんことを。悪にうち勝つ力を与えられんことを。
 Kまだ言ってます 
評 ビスマルク プロイセン公使館員オイレンブルクから王の築城報告を受け
『王の奇癖は遺憾なことだ。彼の中には多くの才能が眠っている。現に今も彼は自国の官僚より政治に通じている』
 

1883年 37〜38歳

2月13日 ワーグナー、ベネチアで客死
8月 リヒャルト・ホルニヒ、ルートヴィヒの不興を買う (日本)鹿鳴館完成

語録

 p
ワーグナーの死を受けて
『ワーグナーの遺体は私のものだ。ヴェネチアからこちらへの移送は、私の命令通りにすべて執り行って欲しい』
語録
p
 
従僕ヴェルガー証言
『キーム湖宮に差し押さえの危険が迫ったときは、この宮殿を爆破せよ』  
   
K工費節減のため、石材の多くが代用資材に…。工事費が切迫しています。もう首が回らない状態とはこのことか。
 
1885年 39〜40歳
王の狂気の噂が立ち始める


 
宮中書記官プフィスター辞任           
  
(日本)内閣制度創設 初代伊藤博文首相
ツィーグラー首相解任
秋
 
ヘーレンキームゼー城鏡の間完成
10日間ほどヘーレンキームゼー城に滞在(後にも先にもこの一度の滞在)
リヒャルト・ホルニヒ解雇
             

 
1886年 40歳

6月8日 ルートヴィヒの精神鑑定書が出される
6月9日 叔父ルイトポルト摂政就任 ルートヴィヒの逮捕命令が出る
6月12日 ノイシュバンシュタイン城からベルク城へ護送
6月13日
6月14日
6月18日
6月21日
侍医グッテンとシュタルンベルク湖で謎の水死
王弟オットー即位、ルイトポルト摂政
葬儀
埋葬

評 枢密衛生顧問官
ゲルスター
両顎は数本の臼歯のみが残っており、大きな隙間には細い腸線で大まかにつないだ入れ歯で埋められていた。王には総入れ歯が必要で、しかも心を病んでおられる。   
語録 ゲルスターに 宮中晩餐会ではみんなが口元を見つめるので、目の前に大きな花束をおかねばならない
K一応気にしてたんだ
手紙 デュルクハイム伯爵に 城を失うようなことになれば、私は自殺するか、永久にこの国を出ていくかどちらかを選ばねばならない。
・・・私に忠実なるものたちを動員し、不逞なる債権者の群を追い払って欲しい
語録 従僕ヴェーバーに 『魂の不滅を信じるかね。私も信じる、魂の不滅と神の正義とを。唯物論についてはかなり読んだがあれはもの足りぬ。崇高さにかける。もしその通りなら人間は動物と同じではないか』
『王冠を奪われる苦しみは忘れることができる。しかし正気でないと宣告された今、生きる道はない。どんな看守にも命令され、従う気がなければ拳を振り上げられ、脅される。そんな弟のような目にあってどうして耐えて行けるだろう』
証言 最後の従僕
ヴェーバー 
王の死後、内閣誹謗罪を問うヴェルツブルク裁判で
『私は絶えず王のおそばにいた。お召し替えを手伝い給仕をした。王はしばしば私と言葉を交わされたが、狂気の兆候などまったく見られなかった』
K最後の忠僕ヴェーバー少年、王の日記ではアルフォンスと呼ばれ、映画ではドスコイ兄さんが演じていた・・
p エリザベート  ルートヴィヒの訃報を受けて
『王は狂人ではありませんでした。ただ夢の世界に閉じ籠もって風変わりな暮らしをしていただけです。人々が彼をもっと寛大に扱っていたら、こんな恐ろしい最期を遂げなくてすんだことでしょう』
 

1886年6月13日 シュタルンベルク湖にて最期。
 


日記 6月7日
最後の日記
最後の官能の過誤。口づけはもう止める。覚えておきなさい。今後決して・・・。今後決して・・・。 






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